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日本国憲法第9条と自衛権ー櫻井よしこ氏の所説に思う [日本の未来、経済、社会、法律]

 

  櫻井よしこ氏は、「国際政治と安保に疎い“長老”たちの罪」(週刊新潮 連載コラム「日本ルネッサンス」660回、2015年6月25日号」において、河野洋平、村山富市、山崎拓、武村正義、藤井裕久、亀井静香氏らの長老議員たちには「軍事力への忌避感」があり、そのことからくる国防についての日本の「やる気のなさ」のゆえに「中国の対日侵略を招いた場合、政治家としてどう責任をとるのかを問いたい」と舌鋒鋭く迫っています。

 

 

 

 櫻井氏は「日本には国民を守るに足る十分な自力が備わっていない。現行憲法はそのようなことを禁ずる精神で作られており、だからこそ、戦後ずっと、アメリカが日本を守る形が整えられてきた。しかし、今、アメリカが自分たちは世界の警察ではないと言っているのだ。この状況下で日本国民の命と領土を守る力を日本国自身が身につけなければならないのは明らかだ。それを達成しようとしているのが、いま国会で議論されている安保法制である」と述べています。

 

 

 

  

  ここでの論理構成は、(1)現行憲法は、日本が国民を守る十分な自力を備えることを禁じる精神で作られており、(2)それゆえ、アメリカが日本を守る形が整えられてきた、(3)しかし、アメリカは今「世界の警察」である役割を担いきれず、(4)それゆえ、日本自身が身を守る力をつけなければならない時点に来ている、(5)集団的自衛権の導入も日本が自身で身を守る力をつけるための一工程だ、というものです。このような論理構成は全体としては受け入れられるものですが、(1)の憲法9条が「十分な自衛力保持を禁じる精神」で作られているという理解については問題があるように思えます。

 

  

改正の経緯

 

 

 

 日本国憲法は明治憲法の改正法です。同改正法は「将来此の憲法の条項を改正するの必要あるときは勅命を以て議案を帝国議会の議に付すべし」との条項(明治憲法73条)に従って「勅命を以て」第90回臨時帝国議会に提出されたものであり、昭和天皇が「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」とされたものです。

 

 

 

 この「改正」を巡っては、周知のとおり宮沢俊義氏の「8・15革命」説があり、明治憲法と現行憲法の「断絶」を主張しています。国民主権の現行憲法と君主主権の明治憲法とは「主権」の所在(憲法制定権力)が根本的に変わっている以上両者を同一のものとして「連続」線上に捉えることはできないー従って「改正」により両者を連続させることは論理的に成立しないーという主張です。

 

 

 

 櫻井氏の所説は、現行憲法はGHQの圧力のもとで外在的に制定されたものであり、第9条についても「国民を守るに足る十分な自力・・・を禁ずる精神で作られて」いると述べられるので、この「断絶説」に立っているのでしょう。

 

 

 

 しかしこの点、昭和天皇は、「朕は・・・深くよろこび・・・帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」と述べられているのであり、このお言葉には、「ご聖断」により「大東亜戦争」を終結せしめ、焦土の中から再び「新日本建設」に立ち上がらんとする「日本国民統合の象徴」(憲法1条)としての昭和天皇の、憲法改正を積極的に受け入れた上での、「新生日本」への固い決意ー「不戦の誓い」を含めてーが込められているのではないでしょうか。次の御製からは陛下のご決意が窺われるような気がいたします。

 

        

           松上雪 昭和二十一年歌会始

 

  ふりつもるみ雪にたへていろかへぬ

 

             松ぞををしき人もかくあれ

 

      新憲法施行

 

  うれしくも国の掟のさだまりて

 

         あけゆく空のごとくもあるかな

 

 

 

 

憲法9条と自衛権

     

 日本国憲法9条は、「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇」又は「武力の行使」は「国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と定め(同条1項)、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と定めています(同条2項)。

 

 

 この憲法9条の立法趣旨の中核は、同条1項にあることは明確です。同項における「不戦の誓い」には尊いものがありましょう。それは「大東亜戦争」の目的は結果として達成された(英国の「アジアにおける植民地帝国」の崩壊や「GATTのもとでの自由貿易体制」の樹立など)ものである以上、もはや日本は「国権の発動たる戦争」を二度と行いはしないという強い決意の表明だからです。戦争はいかなる形で行われるものであっても国民の尊い犠牲を伴うものであり、出征する民の悲しみはひとしおのものではありません。与謝野晶子は日露戦争に際してかつて次のように詠いました。この歌は今も,すべての戦争遺族の心の叫びでしょう。そして、あらゆる子を持つ親の切なる願いでもありましょう。

 

 

「あゝおとうとよ、君を泣く

君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

 


堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

 


君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ」

 ところで、明治憲法の改正後、日本を取り巻く安全保障環境は劇的に変化しています。最初の大変化は東西冷戦の勃発でした。この状況が1980年代に終息し、その後の「不安定な平和」が続く中、近年は中国の軍事的膨張、北朝鮮の核兵器開発という新たな脅威が発生しています。此処にいたって、憲法9条については「自衛権」ということについて解釈の枠組みを根本的に再検討する必要が生じています。その場合の検討事項は、第一に現行憲法上「自衛権」はどのような論理構成で認められることになるのか、第二にそのために必要な自衛力の整備の水準はどこまでなのかといった点でしょう。他国との軍事同盟がどこまで認められるかという点も検討事項となりましょう。 

 憲法9条の論理構造

 憲法9条の解釈について最高裁は、放棄される戦争等と戦力は「国際紛争解決手段としてのそれら」であって、日本国民の生命と安全を守り、領土・領海・領空に係る日本の主権を守るための「自衛戦争とそのための戦力の保持」は禁止されておらず、それゆえ憲法9条の解釈上自衛隊の存在は当然に認められるとしています(最高裁砂川事件判決で示された「自衛戦力合憲論」)。この最高裁のとる「自衛戦力合憲論」は、次のような憲法前文の「平和的生存権」の立場から見ても許容される解釈であると思われます。なぜなら、「急迫不正の侵害に対する自衛のための戦争」は「平和のうちに生存する権利」を回復させる戦争だからです。「全世界の国民が・・・平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。

 このような憲法9条の文理解釈による「自衛戦力合憲論」は憲法立法時の芦田修正により可能となったものです(その経緯については、小関彰一『平和憲法の深層』(ちくま新書、2015年)122頁以下に詳しく述べられています)。憲法第9条1項で「永久にこれを放棄する」と定められているのは「国権の発動たる戦争」等であり、従って同条2項で「保持しない」と定められているのは「国権の発動たる戦争」等のために保有する「陸海空軍その他の戦力」であり、同項で「これを認めない」と定められているのは「国権の発動たる戦争」等を行うための「国の交戦権」です(「交戦権」は「交戦する権利一般」の意味でもあります(第1説)が、捕虜の処遇、占領地行政などに係る「戦時国際法のルールを適用するという権限」(第2説)の意味でもあります。ここでは第2説の意味です)。このような憲法9条1項および2項の解釈の反対解釈として、9条1項で「自衛の戦争」は許され、従って同条2項で「自衛のための陸海空軍その他の戦力」の保持も許され、「国の交戦権」も認められることになります(この場合、占領地行政を行うといった権限は、「自衛権」の行使が侵略を排除することに限定されることから、交戦権の範囲には含まれません)。このような文理解釈から「自然権」としての自衛の戦力の保持と交戦権を導き出すのは通常の法解釈論における反対解釈の範囲内であり、異とするにはなんら当たらないでしょう。このような反対解釈の内容はもし必要ならば憲法改正により、憲法9条に第3項ー例えば「日本国民は、自衛の戦力は、これを保持する」といった文言ーを加えて確認することも考えられましょう。このことにより「自衛隊」は正式に「国軍」として法制度上位置づけられることになります。なお、このような9条1項の「国権の発動たる戦争」の解釈は、それを「侵略戦争」に限るという解釈によるものであり(甲説)、他に「すべての戦争」を言うという解釈もあります(乙説)(甲説、乙説の論理構成については芦部信喜・高橋和之補訂『憲法 第六版』(岩波書店 2015年)54頁以下参照)。しかし今日、乙説によることは、9条2項の「前項の目的を達するため」という文言の入って来た立法の経緯に整合せず、また論理的に成立しえない「自衛権を放棄した主権国家」という観念によるものであり、さらに今日の日本を取り巻く安全保障状況についての「備えを忘れたあまりの楽観主義」によるものであるということになりましょう。

 上述のように櫻井よしこ氏は憲法9条について、「日本には国民を守るに足る十分な自力が備わっていない。現行憲法はそのようなことを禁ずる精神で作られており、だからこそ、戦後ずっと、アメリカが日本を守る形が整えられてきた」と述べています。しかしすでに述べましたように、憲法9条が「国民を守るに足る十分な自力を備えることを禁ずる精神で作られている」といったことは必ずしも史実というわけではなく、また法文解釈上もそのようにしか言えないものでもありません。反対に、憲法9条1項および2項のもとで日本が国民の生命と安全、さらにその主権を守るために「自衛の戦力」を当然保持することは、上述の帝国憲法改正を「深くよろこび」裁可せられた昭和天皇のいわば「第二のご聖断」と最高裁の憲法9条1項および2項に係る憲法判断、さらには近時の厳しさを増す日本を取り巻く安全保障環境の変容への対処の必要性とから、今日自明のことといわなければならないのではないでしょうか。

 この場合、「自衛の戦力」の水準は「他国に頼ることなく、国民の生命と安全、さらに日本国の主権を守るために必要とされる範囲」であって、保持される自衛力に上限がないこともまた明らかでしょう。なぜなら、自衛のための戦力が侵略国の戦力に均衡するものでなければ自衛の用をなさないものである以上、日本は自身を取り巻く時間的・空間的状況の中で十分な抑止力となる自衛力の水準をその時々の判断に応じて維持する必要があるからです。ことに、日本がエネルギーと食糧について大きく輸入に依存しており、産油国等からの長いシーレインの安全確保が喫緊であることから、シーレイン防衛のための「空母機動部隊」など高度の自衛力の保持も必要であると考えられましょう。

 このような「高度な自衛力を保持する」ことになりますと、「自衛の戦力」の「統帥のあり方」が問題となりましょう。この点、憲法66条2項においては「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない」と「文民統制」が明文で定められています。明治憲法下におけるような「現役武官大臣制」は明確に排除されており、「自衛の戦力」に対する民主的統制は徹底しています。

 以上述べてきましたことは、一言で申せば次のようになりましょう。明治憲法改正に際しての昭和天皇の「国権の発動たる戦争は二度としてはならない」という「不戦の誓い」を常に思い起こしつつ、他国からの侵略はこれを断固として阻止するに足る「自衛の戦力」を保持する、そのことにより日本国政府および日本国民は「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス(大東亜戦争終結ノ詔書 昭和20年8月14日)」る陛下のお心に沿うことになりましょう。



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