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「憲法九条二項残せば自衛隊に制約残る」か [日本の未来、経済、社会、法律]

   (追記)
 憲法九条二項の意義
   帝国議会における帝国憲法改正案の衆議院および貴族院における審議において、憲法九条二項の条文の構造の理解として、一文の「戦力不保持の規定」が「物的、人的に武力を持ってはならぬ」ことを定め、二文の「交戦権の否定の規定」が「法律面から」武力の行使を禁止し、この二段構えの規定により一切の場合に於いて戦争の起こらないようにしていると説明されています。

 

 そして、憲法九条一項と二項の関係について、一項では戦争放棄について「他国との間の紛争の解決の手段として」という条件が付いており、この場合「防御的戦争」が一項に含まれるか否かの疑問が生じるので、二項に於いて「一切の場合における(戦争のー筆者)手段を封鎖」することとし、一項よりも禁止の範囲を広くして自衛の戦争をも禁止するものとした、と説明されています。

 

 以上の憲法審議の示すところは、二項における「前項の目的を達するため」という「芦田修正」の前に於いては、一項より禁止範囲の広い二項は「防御的戦争」をも禁止するものであったことがわかります。

 

 なぜこのような極端な絶対的平和主義の条文が政府原案となったのか、その理由が明らかにされる必要があるでしょう。

 

    この点、憲法改正案の審議においては、既述の通り不戦条約に於いて侵略による戦争は禁止されるが、自衛の為の戦争および制裁の戦争(ある国が他の国に対して違法に戦争に訴えた場合、第三国が当該「他の国」を援助して当該「ある国」に武力を行使する場合、この第三国の行う戦争は「制裁の戦争」として不戦条約のもとで許容される。)は適法な戦争であり、憲法改正草案九条一項の戦争放棄においてもこれらは許されるはずなのに、同条二項においてこれら適法な戦争をも否定するのはいかなる意味であるかという点をめぐって質疑が行われていました。

 

    この点についての政府答弁は、日本国が侵略を受けた場合「国際法団体に依る安全保障制度」(国際連合)のもとで当該侵略国は制裁を受け、日本国の独立は維持されるのであるから、自衛の戦争は必要なく、制裁戦争に参加できないことについては日本国の戦力不保持の趣旨について各国の了解をとればよい、というものでした。

 

 このような極端な絶対的平和主義によっては日本国の安全が保障されないものであることは自明のことであり、従って芦田修正により九条二項が自衛の戦争と制裁の戦争を許す九条一項における戦争の放棄の規定内容を「確認」する規定に修正されたことは、政府の憲法草案第九条の条文の構造を「根底から変える」決定的に重要なことでした。この修正により憲法九条の条文構造は不戦条約一条と同じ構造となったのでありました。芦田均『新憲法解釈』(ダイヤモンド社 昭和21年11月、36頁)はこの点について次のように述べています。

 

「第九条の規定が戦争・・・を放棄したことは、国際紛争の解決手段たる場合であって、これを実際の場合に適用すれば、侵略戦争といふことになる。従って自衛のための戦争と武力行使はこの条項によって放棄されたのではない。また侵略に対して制裁を加える場合の戦争もこの条文の適用以外である。これらの場合には戦争そのものが国際法上の上からも適法と認められているのであって、千九百二十一年の不戦条約や国際連合憲章に於いても明白にこのことを規定しているのである」


   もし政府原案の憲法九条一項・二項のままで日本国憲法が制定されておりましたら、今日の自衛隊の存在を根拠づける法的基礎(最高裁砂川事件判決における自衛戦力合憲判断)はなく、我が国の安全保障は百パーセント外国の軍隊(米軍)に依存するものとなるしかなかったでしょう。そして、米国の政治情勢如何では東西冷戦の真っただ中で羅針盤のない大海中の小舟となり、主権国家としての独立性は大いに損なわれて「米国の惨めな属国」となっていたかもしれません。この意味で日本国民は「芦田修正」を実現させた芦田均という政治家とそれを支えた政党にいくら感謝しても感謝しきれないものがありましょう。

 

    なお、この「芦田修正」については若干の注釈が必要でしょう。

(1)政府原案は、憲法九条一項は自衛の戦争と制裁の戦争を許すが、九条二項が自衛の戦争の為の戦力もそれに係る交戦権もすべて保持を禁止するので、結果として憲法九条はすべての戦争を禁止するという条文構造のものでした。

(2)芦田修正は、当初、憲法九条の政府原案の条文構造はそのまま維持しつつ、その趣旨を一層徹底するために、「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」を九条一項冒頭に加え、九条二項はこれを受けてその冒頭に「この目的を達するため」という文言を加えたものと解されていました。このことは、芦田の「憲法改正案委員会」委員長としての昭和二十一年八月二十二日衆議院本会議に於ける委員長報告に明らかです(同上趣旨の報告を行っています)。

(3)しかし、芦田はその後、九条二項の「前項の目的を達するため」という文言の「前項の目的」は「国際平和の・・・希求」ではなく、「国権の発動たる戦争・・・を放棄する」ことであると解釈を変えていきます。この芦田の解釈の変遷を進藤栄一「解題ー日記と人と生涯ー」(芦田均日記第一巻 岩波書店 1986年 所収)は次のように述べています。

 「(昭和二十一年八月末から十月初めにかけての貴族院における第九条論議が佐々木惣一、牧野英一、高柳賢三などにより、日本の軍備の可能性を第九条の解釈の枠内でなお残すべきという方向で行われ)そうした議論を耳にしながら芦田は、第九条第二項の冒頭の修正の当初の意味を捉え直し、ケロッグ・ブリアン協定の系譜のなかで位置づけ直していたとしてもおかしくはない」。

(4)「芦田修正」といわれるものが、当初の解釈(解釈1)から前掲の芦田均『新憲法解釈』における解釈(解釈2)に変容したということは、以上の幾つかの引用文からみて間違いのないものといってよいでしょう。従って、改正憲法9条2項冒頭の「芦田修正」という言葉で表されている文言は解釈2なのです。

 

(本文)

 自民党総裁候補石破茂氏は、産経新聞「単刀直言」で、安部晋三首相の掲げる憲法九条二項を維持したままで「自衛隊の存在」明記する九条三項を新設する憲法改正案を批判して、それでは憲法を理由として自衛隊に係るさまざまな制約がそのまま残されると述べています。たとえば、「戦力の保持」を禁止する九条二項が存置されたままでは「ヘリコプター搭載護衛艦」の建造に際して、これは禁止された「戦力」に当たらず、海上自衛隊の有しうる「必要最小限度の実力」であるという説明を国会で続けなければならなくなる、などです。石破氏の九条改正案は、端的に九条二項を削除するというものです(産経20180917)。

 

 憲法九条二項の意義

 

(1)憲法九条一項―「戦争の放棄」と「自衛の戦争」

 

そこで憲法九条二項の意義はどこにあるのかということが改めて問題となります。この問題を考えるにはまず「憲法九条の構造」をみる必要があります。憲法九条はその一項で「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使を放棄する」と規定します。この「戦争放棄条項」は、パリ不戦条約(一九二八年八月)の第一項および第二項(および国連憲章第五一条)の規定を「国内法化」したものと考えられます。すなわち、パリ不戦条約は「締約国は国際紛争解決の為戦争に訴うることを非とし」且つ「相互の関係に於いて国家の政策の手段としての戦争を抛棄すること」を宣言すると規定し(一項)、締約国は一切の紛争を平和的手段によって解決することを約す(二項)と規定しています。このようなパリ不戦条約は、自衛や制裁の場合以外の攻撃戦争を全面的に禁止し、同時に紛争の平和的解決を義務づけるもので、「国際法における戦争の地位の転換を表現するもの」(三省堂・国際関係法辞典二版)です。

 

国際法に於いて「戦争の地位の転換」は、中世の「正戦論」から十八世紀には「無差別戦争観」へと変わり、第一次大戦後の国際連盟規約、不戦条約において「戦争の制限、さらに違法化」へと変わってきたものです。今日では国連憲章下で戦争または国際関係における武力行使、さらに武力による威嚇さえも違法な侵略ないし国際犯罪として禁止されるに至っています。この「戦争の違法化」が国際条約法として確立することにより許される戦争としての「自衛の戦争」ということが問題となり、今日「武力を行使する国はその正当化のために国連憲章上の自衛権(同憲章五一条)を援用するのが常」となっています(三省堂・国際関係法辞典二版)。

 

 以上のように不戦条約、国際連合憲章において「自衛の戦争」が許容されるものであるとしますと、日本国憲法九条一項の戦争の抛棄条項においても国連憲章五一条の認める自衛権の存在と自衛の戦争を行うことを否定するものではないと考えられることになります。

 

(2)憲法九条二項―「戦力の不保持」と「自衛の戦争」

 

 そこで次に九条二項ですが、同項は「陸海空軍その他の戦力」の不保持を定めますので九条一項の「戦争の放棄」との関係が問題となります。九条二項は「前項の目的を達するため」と定めますので、一項と二項の関係は「違法な戦争は放棄する、その為の戦力も保持しない」という論理構造になると考えられます(二項は一項の確認規定で、戦争放棄 の意味を具体的に明確化したものであり、内容的には一項と同一となります)。つまり、九条一項で「自衛の戦争」は許されるとしますと、同項で禁止されているのはそれ以外の戦争(侵略戦争)やその他の武力による威嚇となり、従って九条二項で保持を禁じられた「陸海空軍その他の戦力」も自衛の戦争以外の戦争(侵略戦争)やそのたの武力の威嚇のための「戦力」となります。

 

 そうしますと、次に「自衛の戦力」の水準ということが問題となります。この点に関する日本国政府および最高裁(砂川事件判決)の九条二項についての解釈は、陸海空自衛隊の保有しうる「戦力」は「必要最小限度の実力」というものであり、これでは東西冷戦下にあってはソ連に対する軍事的抑止力としては足りませんから、その足りない部分は安保条約に基づいてアメリカ軍の戦力がそれを埋めるというものでした。こんにち、冷戦時代のソ連を引き継ぐロシアの戦力に加えて台頭著しい中国の戦力も近年加わりましたから自衛隊の「戦力」の不足分を埋めるアメリカ軍の戦力も一層巨大なものとなり、それに耐えられないアメリカは日本の自衛隊の「戦力」の増強を強く求めることになっているわけです。

 

 「自衛の戦力」の水準は「最小限」としましても、なにが最小限かは相手の戦力との関係により変わってきます。中国が尖閣諸島に「失地回復のための自衛の戦争」を仕掛けてきた場合、琉球列島を巡る長期に亘る戦争となり、これをくい止め撃退するためには日米合同の中国の戦力を上回る「自衛の戦力」が必要となります。軍事力の有する抑止力は「戦力均衡」の場合にのみ効果を有し、自己の戦力が相手方に対して二倍であるとすると相手に対して侵攻する誘惑にかられるでしょう。そうしますと有効な抑止効果を発揮しうる「最小限の自衛の戦力」は上記の例ですと日米合同で中国と同規模またはそれ以上の水準のものであるということになります。現在の日本の防衛費は五兆円台であり、アメリカ軍の戦力分をリプレイスするとしますと二十三兆円の防衛費が必要となるとの試算が軍事評論家により出されています(これにより賄われる「戦力」が最終的な「最小限(の戦力)」となります)。この額は現在の政府予算の四分の一に当たります。社会保障費や社会インフラ建設費を削減し、消費税を20%程度に引き上げることになりましょう。旧陸海軍の軍事費は国家予算の半分でしたから、日本国の主権を維持し、国土・領海を守るためには将来的ー「軍事的半独立国」を脱して真の主権国家として独立する日ーにはそのような状態を覚悟しなければならないものと思われます。

 

(3)憲法九条二項―「交戦権」と「自衛の戦争」

 

以上述べましたように、憲法九条二項のもとで陸戦、海戦、空戦による「自衛の戦争」は行いうるものとなります。

 

 そこで次に「自衛の戦争」においても、交戦国間の戦闘の手段(使用の許される兵器の種類など)と方法(砲爆撃や奇計など)、捕虜および文民の人道的待遇などについて定める「交戦法規」(ジュネーブ条約やハーグ条約)の適用が認められるか否かが問題となります。これは認められると考えられます。条文上の根拠としては、九条二項において「前項の目的を達するため」定めるところは九条二項二文の「国の交戦権は、これを認めない」まで掛かると読むことになります。ここでの交戦権の否認は侵略戦争の場合に限られ、自衛の戦争の場合は交戦法規の適用は当然あることになります(論理的には「戦争放棄=戦力不保持=交戦権否認、但し自衛の戦争の場合を除く」となりましょう)。

 

 交戦権について石破氏は「ハーグ条約では、相手国に向かう船の臨検や拿捕、積み荷の没収を認めていますが、私は国会で『日本は交戦権を認めていないのでできない』と嫌々ながら答弁してきました」と述べますが、臨検や拿捕をなぜ実施できないのでしょうか。

   第二次世界大戦において、米国・英国はフランスがドイツに降伏するやいなやフランス艦船を攻撃し沈没させました。これは接収されたフランス艦船がドイツの兵力となり対英戦に投入されることを防止する自衛の措置です。同様の事例はナポレオン戦争においてもあります。英仏が戦争状態にある時、中立国デンマークの海軍艦船を奪い合い、イギリスがそれら艦船を拿捕しましたが、これは英国の自衛の行動でした。これらのように自衛のための措置は第三国に対するものを含む幅広いものであり、相手国に向かう船の臨検、拿捕、積み荷の没収などは自衛の行動であり、自衛権の行使そのものであると言えます。

 

  憲法九条三項の新設―自衛の戦力保持と自衛権発動の要件の明文化

 

以上述べましたように憲法九条一項の戦争の放棄条項および同条二項の戦力の不保持条項のもとで不戦条約と国際連合憲章の認める自衛の戦力の保持は当然許されるものです。このことは日本国に限ることではなく、戦争の違法化が国際規範となった今日超大国を自認する国といえども国権の発動たる戦争を自由に行うことは出来ず、唯一許される戦争は自衛の戦争だけです。

 

そこで「自衛権の発動」についてはその「濫用」をどのようにして防止するかということが最大の問題となります。国際連盟規約、不戦条約、国際連合憲章はこの点に腐心し、さまざまな濫用防止のための制度を構築してきました。その現在の到達点は国連憲章五十一条と関連の手続きです。

 

日本の場合、憲法九条に三項を新設して「自衛の戦力の保持」を明文化し、これにより自衛隊を国軍として認知して、その上で自衛権発動の原則的な要件(緊急であること、武力行使を受けたこと、文民統制の徹底、国連との関係など)を、詳細は自衛隊法に規定するとして、定めることが、憲法を一層日本国民のためのものとするのに必要と考えられましょう。このような規定を置かずに、世界有数の軍事力保有国となった日本が、その国軍について憲法上の基礎を持たずに(国民主権を定める憲法による統制を受けないままに)、その自衛権発動の手続きも法律のみに任せておくというのも、「統帥権が機能不全を引き起こした」過去の歴史に鑑みれば些か不安なことです。

 

   

 


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