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満州事変と自衛権(未完) [日本の未来、経済、社会、法律]

 日本近代史雑感(1)は「昭和天皇と杉浦重剛」でした。今回はその(2)です。

 ここで取り上げようとする「満州事変」とは、山川・日本史用語集によれば「1931-33年。柳条湖での南満州鉄道爆破を機に、東三省を武力占領し、満州国として独立させ、のち、熱河省をも占領した」ものであり、角川・日本史辞典によれば、「1931(昭和6)年9月18日の柳条溝事件によって開始された日本の満州(中国東北部)侵略戦争」です。

   

Ⅰ 国際連盟と満州事変―国際連盟紛争解決システムとその限界

 

    この「満州事変」について、昭和6年(1931年)9月21日在ジュネーブ中国政府(中華民国国民党政府)代表は、「9月18日より19日に至る夜間奉天に於いて発生せる事件より起れる日支間の紛争に関し・・・国際の平和を危殆ならしむ事態の此の上の進展を阻止するため即時手段をとらんこと」を国際連盟理事会に訴え、国際連盟はこの中国政府の正式出訴を受けて当該紛争の審査に乗り出しました。

 

 1919年設立の国際連盟に於いて、加盟国は「戦争に訴えざるの義務を受諾」すものでしたが(規約前文)、なお「戦争権」は保持していました。すなわち、連盟規約上の紛争処理手続(司法裁判等)を経た後(例えば、司法裁判に勝訴した後)に戦争に訴えることは許されていました(制裁のための戦争。紛争処理手続を経ない、あるいは敗訴した場合のみ戦争は許されないものでした。)。1928年に至り不戦条約(パリ不戦条約ないしブリアン・ケロッグ条約)が成立し戦争は一般的に禁止されるものとなりました(戦争の違法化)。不戦条約の下では「自衛の戦争」のみが合法とされました。

 

そこで満州事件における日本軍の行動は「自衛の戦争」に該当するか、さもなければ不戦条約違反の「違法な戦争(侵略戦争)」とみなされるべきものでした。中国政府は日本軍の行動は侵略戦争であると主張し、日本政府は自衛の戦争であると応戦したのです。

 

  国際連盟理事会決議1

 国際連盟理事会は、同年9月30日に日本を含めた理事国の全員一致で、次の事項を主たる内容とする決議を行いました。

(1)日本国は満州においてなんら領土的目的

         を 有するものでないこと、

(2)日本政府は「その臣民の生命の安全及びその財産の保護が有効に確保せらるるに従い」日本軍隊をできる限り速やかに「鉄道付属地内」に撤退させること、

(3)中国政府は「鉄道付属地外における日本臣民の安全及びその財産の保護の責任を負うべき」事。

 (2)で「鉄道付属地」というのは、日本が、19059月に「ポーツマス条約」によりロシアから譲渡された「南満州鉄道」の線路を保護するため、守備兵を維持していた地域のことです。この「譲渡」は190512月の北京条約により清国政府から承認されていました。

 

国際連盟理事会決議2―リットン調査団設置の決議

 国際連盟理事会は次いで12月10日に次の決議をおこないました。

(1)昭和6年9月30日の「理事会全会一致可決の決議を再び確認する」、

(2)この間に「事態更に重大化したるに鑑み…両当事国は此の上事態の悪化を避くに必要なる一切の措置をとること」、

(3)上記諸措置の実行とは関係なく、本「特殊なる事情に顧み」本件紛争の終局的且つ根本的解決に寄与させるため「一切の事情に関し実地に就き調査を遂げ 事会に報告せんが為五名よりなる委員会を任命する」こと。

 

日本代表は12月10日理事会決議を受諾するに当たり(2)について以下の留保をなしました。「(2)は、満州各地に於いて猖獗(しょうけつ)を極むる匪賊(ひぞく)及び不逞(ふてい)分子の活動に対し日本臣民の生命及び財産の保護に直接備うるに必要なるべき行動を日本軍が執ることを妨ぐるの趣旨に非ずとの了解の下に受諾する」。

また「一切の事情に関し実地に就き調査を遂げ」ための「リットン調査団」が組織されました。メンバーは英国からリットン伯爵、フランスからクローデル中将、イタリアからアルドロバンディー伯爵、ドイツからシュネー博士およびアメリカからマッコイ少将です。リットン調査団は、1932229日に東京に到着し、その後上海、南京、揚子江沿岸、北平、満州とまわって7月4日に東京に帰ってきました。同調査団の報告書は94日に国際連盟に提出されました。

 

  国際連盟総会―紛争の解決

昭和7年(1932年)2月12日に至り、中国政府は国際連盟理事会に対し連盟規約159項(紛争処理手続は連盟理事会から連盟総会に移しうる旨の規定)に基づき紛争を総会に付託することを要請しました。

 

 国際連盟はこの要請を受け入れ、昭和8年(1933年)227日には総会を開催し以下を採択しました。

(1)総会の審議の為提出された紛争の解決にについて「(連盟規約15条)第三項に より其の為すべき義務ありたる努力が失敗したること」の確認、

(2)「(連盟規約15条)第四項に基づき紛争の諸事実の記述及び右紛争に関し公正つ適当と認むる勧告を載せたる報告書」

 

 (2)のうちの「公正且つ適当と認める勧告」の内容は、1)南満州鉄道付属地外における日本軍隊を撤収させること、2)日本と中国は「(リットン調査団報告書に示された)諸原則及び条件」を基礎として紛争解決にあたること、です。

 (1)に明らかなように、決議の全会一致を原則とする国際連盟総会は結局中国の提訴に係る満州事変の処理に失敗しました。日本政府は、満州事変が自衛の行動であることを認めるか、認めないまでも明確には否定しないままで日本軍が南満州鉄道付属地への撤退するという内容の決議、すなわち連盟理事会による9月30日の決議と同様の決議であれば連盟規約15条3項による全会一致の解決を受け入れる可能性はあったと思われます。しかしこのような解決が出来なくなった結果、より厳しい内容の連盟規約15条4項の多数決による対日勧告ー「日本軍の南満州鉄道付属地内への撤収」と「日中の紛争解決努力」に係る勧告ーを決議することとなったのでした。

 

 

    この対日勧告のもとでは、日本軍の鉄道付属地への撤収には「鉄道付属地外に居住する日本人の生命と財産の安全」を日本軍に代って中国政府が保障することが前提となりますから、中国政府においてこれをなしえない場合には日本軍の駐留がその限りで正当化されることになり、当該駐留の最小限度に於いて日本の「鉄道付属地外に対する自衛権」を認めるものとならざるをえなかったのではないでしょうか。

 

 

   日本政府は国際連盟総会の決議を受けて国際連盟を脱退しますが、その理由は、ひとえに「九月十八日事件当時及び其の後に於ける日本軍の行動を以て自衛権の発動に非ずと臆断し・・・満州国成立の真相を無視し且つ同国を承認せる帝国の立場を否認し」たことでした(昭和8327日発表国際連盟脱退通告文)。ここには、自衛権の発動とは次元を異にした清朝復興を大義とする満州国の成立(民族自決)という事由が述べられており、これが満州事変の評価を自衛権の発動の是非に留まらないものとしたという側面もあったように思えます。


   日中両国による満州事件紛争処理のその後

  日本は国際連盟を脱退しましたから(昭和8327日国際連盟を脱退する旨国際連盟事務局長に通告。正式の脱退は二年後)、これ以降は、日本と中国は直接紛争解決のための二国間協議を行うこととなりました。

日本にとっての国際連盟脱退の結果ですが、国際連盟の設立を唱導したアメリカはそもそも発足時から国際連盟に加盟しておらず、日本の脱退に引き続きドイツ、イタリアも脱退し、ソ連も加盟していませんでした。国際連盟加盟国は五十か国を超えていたとはいえ、いわゆる「列強」で加盟しているのはイギリスとフランスの二国にとどまり、国際紛争解決機関としての国際連盟の役割は限局されるものでした。このことから言えば、日本が国際連盟脱退により国際社会からの孤立化を深めたというものでも必ずしもなかったのではないでしょうか。1930年代には米英、枢軸国、ソ連の間の植民地獲得を巡る利害対立は既存の国際機関や国際条約によっては調整不能なレベルにまで進んでおり、これら三極は第二次世界大戦の発火点への道をひた走っていたのだと思われます。

 

Ⅱ 満州事変における日本政府の「自衛の戦

争」論は成り立つか

 

 

1自衛権とは

      さて、すでに述べてきましたように満州事件における日本軍の行動は「自衛の戦争」に該当するか、さもなければ不戦条約違反の「違法な戦争(侵略戦争)」とみなされるべきものでした。中国政府は日本軍の行動は侵略戦争であると主張し、日本政府は自衛の戦争であると応戦したのです。その結果たる昭和82月の国際連盟総会は日本は規約違反国なりという決議を成立せしめえず、その決議は単なる勧告であって全加盟国を拘束するものではありませんでした。そこで次に同総会の決議内容たる「(連盟規約15条)第四項に基づき紛争の諸事実の記述及び右紛争に関し公正且つ適当と認むる勧告を載せたる報告書」のうちの「紛争の諸事実の記述」の部分の検討をおこなってみることにしましょう。この検討で核となる概念は「自衛権」とな何かということですから、まずその点をみておくことにしましょう。

 

「自衛権」とは、岩波・法律学小辞典(昭和12年)によれば、「国際法上で国家が自国又は自国民に対する急迫・不正の危害を除去するために已(や)むことを得ないで行う防衛の権利」です。この権利は、第一に他の手段によっては防衛しえないこと、第二に必要な限度を超えないことを要し、当該行為は他国の権利を侵害してもその違法性が阻却されて適法な行為となります。自衛権は国内法上の正当防衛権に当たるものです。自衛権に類似の権利に緊急権と自存権(自己保存権)があり、これらを含めて自衛権ということもあります(広義の自衛権)。

 

 

    自衛権の基本的性格―主権の作用

 

自衛権は、すべての主権国に固有のもの、すなわち国際法により与えられたものではなく、国際法によっても制限することのできない権利で、一般的には、武力攻撃の発生した場合に限られず一切の権利の侵害に対して認められるものであり、権利の侵害が現実に起こったときだけでなく、まさに起ころうとするときにも認められ、この後の方が自衛権の行使される本来の場合でした。これに対して、パリ不戦条約(1928年)は少し限定を加え、「すべての国は、いつでも、条約の規定にかかわりなく、攻撃または侵入に対して、自己の領土を防衛することが自由である」として、自衛権を武力攻撃発生の場合に限定しました(アメリカケロッグ国務長官、1928623日の通牒)。国連憲章51条前段はこのような考えを引きついでいます。

 

    自衛権の種類―個別的と集団的な自衛権の区分

 

つぎに、自衛権には個別的と集団的なものが区別されるということがあります。「集団的な自衛」というのは「武力攻撃を受けた国」と密接な連帯関係にある諸国が、攻撃を受けた国を援助し、攻撃に対して共同的に防衛することです。これを認める論理は、当該攻撃が「援助する国」への攻撃にまで及ぶ可能性があるので、援助することは自己の安全を防衛することになるというものです。この場合、援助する国の自衛権は間接的なものとなりますが、ここの部分の説明は、日本語の自衛権、英語のself-defenseが自己を防衛する権利という意味であるのに対して、フランス語のlegitime defenseは「正当防衛」であり、「正当防衛」は国内法上自己または他人の権利に対する急迫な、不当な侵害に対して防衛する権利でありますから、「密接な連帯関係にある他国に対する急迫・不正の危害」のおそれのある場合も防衛の行動をとることができるというものです(このような説明は、横田喜三郎・国際連合(昭和26年)によります)。

 

    自衛権の発動方法―自衛権発動の濫用の防止

 

自衛権には、その行使が正当なものであるか否かをどのように判断すればよいかという問題が常にあります。一般には、自衛権を行使する当事国がこれを判断するとされてきました。しかしその場合、武力攻撃の事実、真に必要な範囲の防衛行動であることの判断を当事国に任せるのでは自衛権の濫用を防ぐことができません。ここに、第一次的には当事国が判断するけれども、最終的には国際機関の審判と判定によるものでなければならないという思想が生まれてきました。国際連盟の紛争処理手続はこのような任務を担って創出されたものでした。

 

 

2 満州事変における日本政府の「自衛の戦争」論 

 

 



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