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韓国併合(1910年)と明治憲法   日本近代史雑感(2) [日本の未来、経済、社会、法律]

  韓国併合

 

 (1)韓国併合条約

 

「韓国併合」は、明治43年(1910年)の下記「韓国併合に関する条約」によりおこなわれた。

 

日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下は両国間の特殊にして親密なる関係を顧ひ相互の幸福を増進し、東洋の平和を永久に確保せむことを欲し、此の目的を達せんが為には韓国を日本帝国に併合するに如かざることを確信し茲に両国間に併合条約を締結することに決し、之が為日本国皇帝陛下は統監子爵寺内正毅を韓国皇帝陛下は内閣総理大臣李完用を各其の全権委員に任命せり因って右全権委員は会同協議の上左の諸條を協定せり

 第1条 韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す

第2条日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す3条~第7条(略)

 第8条  本条約は日本国皇帝陛下及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして公布の日より之を施行す。右証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり

                                明治43822日 

                                        統監 寺内正毅

                                        内閣総理大臣 李 完用

 

           

    詔書発布

    韓国併合条約は明治43829日に発効したが、明治天皇は同日の韓国併合の詔書において「朕東洋の平和を永遠に維持し帝国の安全を将来に保障するの必要なるを念い・・・」と述べ、また、韓国皇帝はその詔勅(明治43822日)において「朕東洋の平和を鞏固ならしむるが為韓日両国の親密なる関係を以って彼我相和して一家をなすは相互万世の幸福を図るゆえんなるを念い・・・」と述べた。

 

   欧米列強に支持された韓国併合

   韓国併合は、ロシア、インド等の植民地を有するイギリス、フィリッピンを植民地として持つアメリカから支持されるものであった。すなわち、ロシアは「日露戦争講和条約」、イギリスは「日英同盟条約」、アメリカは大統領が小村大臣に「「口頭」(桂タフト協定)で支持をそれぞれ表明していた。例えば、日英同盟条約においては、「日本国は韓国に於いて政事上、軍事上及経済上の卓絶なる利益を有するを以って、大英帝国は日本国が該利益を擁護増進せむが為正当且必要と認める指導、監理及保護の措置を韓国に於いて執るの権利を承認す」(第二次日英同盟協約第3条、明治38年(1905年)812日)と規定されていた。

 

   日本政府は、明治43829日に、韓国との間に条約を有するドイツ、アメリカ、オーストリー、ベルギー、清国、フランス、イギリス、イタリア、ロシア等の各政府に対し「韓国併合に関する宣言」を発し、韓国と列国との条約は当然無効に帰し、日本国と列国との現行条約は朝鮮に適用されるものであること等を通知した。

 

(2)併合と割譲

   美濃部達吉著・宮沢俊義補訂『日本国憲法原論』(初版昭和23年、補訂版昭和27年、有斐閣)は併合と割譲の違いについて次のように説明している。

 

「領土の変更は国際条約によって生ずるのを普通とする。条約による新領土の取得には、「他国より領土の一部の割譲を受ける場合(一部割譲)」と「他国を併合する場合(国家併合)」との別があると、述べる。そして、「国家併合」の場合においては被併合国は国家としての存立を失うのであるから、そのすべての国民は必然に併合国の国籍を取得するものでなければならぬ、すなわち対人高権も含めた国家の一切の権利を移転するものである。「一部割譲」の場合はこれに反して割譲地の住民は必ずしも割譲により当然にその国籍を変更するものではなく、従来の国籍を保有するかまたは国籍を変更するかは割譲条約によってこれを定るのを普通とする、と述べる。例えば、台湾割譲の場合、「台湾に住所を有する支那人は二年以内に不動産を処分して退去することを条件として支那の国籍を保有しうべく、この条件を充たさなかったものに限り条約締結後満二年を経て初めて日本の国籍を取得すべきもの」と定めた(明治28年下関条約5条)。樺太割譲の場合、ロシア人が不動産を処分して退去する場合のみならず依然その地に在住する者も従来の国籍を保有するものとし、日本人となすことを拒んだ。

 

(3)併合と植民地

   以上に述べたように「国家併合」の場合において、被併合国は国家としての存立を失い、そのすべての国民は必然に併合国の国籍を取得する。これは「内地延長主義」である。これに対して、イギリス帝国においては「植民地主義」がとられ、これは「独立の植民地に特有の発展をさせる主義」である。「イギリス帝国の構造」を図示すれば次のようになる。

 

                                       大英帝国の構造   

  併合(Annexation)

  植民地 根拠―国際連盟規約22条「文明の委託」

        自治政府(Dominion自治領)豪州、ニュージー ランド、カ                      ナダ、南ア

        属領(Crown Colony王領属地)インド                 

        その他  海峡植民地及び

 

   大英帝国の「植民地主義」は、先進工業国であるイギリスを「母国」とし、「植民地」は「母国の従属市場」、すなわち、第一に工業原料と食料の供給地であり、第二に母国工業製品の販売市場たるべきものとするものであった。「植民地」における綿織物のような伝来的・自生的手工業が綿工業にまで成長していくことは阻止された。

    日本政府は、台湾は割譲、朝鮮は併合で、これらはイギリス帝国の構造との比較でみれば「植民地」とは言えない(注1)、それゆえ、「併合された朝鮮」についても一貫して植民地でない(内鮮一体)として、朝鮮の工業化、すなわち「農工併進路線」を推進したのである。

 

(注1)今日韓国併合については「植民地支配論」が通説となっている。その拠って来る所以は以下のように考えられよう。韓国併合に際しては、当初から民衆の中に併合に反対して独立を回復することを目指す運動があった。その担い手は、旧官人両班層、一部知識人、失業軍人などであった(旗田たかし『朝鮮史』岩波全書)。併合から9年目の大正8年(1919年)28日には、京城パゴタ公園で「独立宣言書」が読み上げられ、独立万歳を叫ぶデモが行われて、それは朝鮮各地に広まった(これを「31独立運動」という)。この時以降、 民族運動として始められた朝鮮独立運動は、ロシアの191710月革命の影響を受けるところとなり、同運動はマルクス・レーニン主義を指針とするものとなった(京大文学部国史研究室日本近代史辞典「朝鮮独立運動」の項、昭和33年、東洋経済新報社)。この指針のもとでは、「韓国併合」は「日本帝国の植民地獲得」であり、同国は「朝鮮に対して植民地支配を行うもの」と性格づけられた。それゆえ、「日本帝国主義の軛からの植民地(朝鮮、満州、台湾其の他)の解放」(コミンテルン32年テーゼ)が朝鮮独立運動の主目的とされることとなったのである。

    これに対し、内鮮一体・農工並進を進める日本政府は、朝鮮における3・1独立運動に際して「一視同仁の詔書」と呼ばれる「朝鮮総督府官制改革に関する詔書」を発し(大正8年(1919年)819日)、同詔書において次のように述べた。「朕、夙(つと)に朝鮮の康寧を以って念と為し、その民衆を愛撫すること一視同仁、朕が臣民として、秋毫(しゅうごう)の差異あることなく、各其の所を得、其の生に聊(やすん)じ、斉しく休明の澤を享けせしめんことを期せり。今や世局の進運に従い、総督府官制改革の必要を認め、此に之を施行す。(以下略)」。

 

2憲法と制令

(1)憲法全面適用説―日本政府

    韓国併合にともない大日本帝国憲法の適用が問題となった。これについて日本政府は「全面適用説」をとった。帝国が統治権を行使する全範囲において帝国憲法は施行されると解したのである。すなわち、帝国憲法4条が「天皇は・・・統治権を総攬しこの憲法の条規に依り之を行ふ」と定めるところに依拠して、朝鮮統治は「天皇の大権」によるー議会の協賛を要しないーものであると解し、かつ天皇大権による統治においては「憲法典は外地にも行わるるが、その場合憲法の例外的統治―施行せざる帝国憲法の条章については除外規定を制定することーは是認される」とも解したのである。そして、この「憲法の例外的統治の仕組み」として「朝鮮においては法律を要する事項は朝鮮総督の命令を以て」するとし、この命令を「制令」と称することとした。この統治の仕組みに係る「朝鮮に施行すべき法令に関する件(法律30号明治44年)」は以下の通りである。

  1. 1条 朝鮮においては法律を要する事項は朝鮮総督の命令を以てこれを規定することを得

    2条 前条の命令は内閣総理大臣を経て勅裁を請うべし

    3条 臨時緊急を要する場合においては朝鮮総督は直ちに第1条の命令を発することを得

    4条 法律の全部又は一部を朝鮮に施行するを要するものは勅令を以てこれを定む

    5条 第1条の命令は第4条により朝鮮に施行したる法律および特に朝鮮に施行する目的を以て制定したる法律および勅令に違背することを得ず

    6条 第1条の命令は制令と称す

     

    (2)憲法段階的適用説―美濃部達吉

    しかし、以上の日本政府による帝国憲法全面的適用説に対しては、憲法学の美濃部達吉はこれを厳しく批判し、次のように論じていた。

     

    美濃部は、内地と各外地(注2)とは各々別の法域を為している。問題となるのは憲法が新領土にも効力を及ぼすべきであるかという点である。台湾、朝鮮においては少しも「憲法政治」が行われていないので、憲法は新領土において効力を有しているとはいえないと論じて、以下の諸点が問題であるとした。

    第一に、国民に参政権が与えられていない。

    第二に、立法権と行政権が分離されず、総督において行政権を有し、及び議会の協賛を得ることなく法規を定めているので立法権をも有していることになる。

    第三に、司法権も、総督が裁判官に休職を命ずることができるので、完全に独立しているとはいえない。

  2. 第四に、兵役の義務を負っていない。第五に、日本臣民は等しく公職に就くことができるにも関わらず、国会議員はおろか、内地にて文武の官職に就くこともできない。

 

(注2)美濃部は、ここで「外地」と呼んでいるものを「法律上の植民地」と呼んでいる。「法律上の植民地」とは「本国の国法上又は国際法上の属地にして本国とは原則として其の行わるる所の法を異にするもの」をいうとした。この定義に当てはまるものは朝鮮、台湾、樺太及び関東州租借地(もっぱら日本の統治権に服しているが、潜在的に清国の統治権が存在しているという特殊な属地)で、いずれも「日本の国法上の領域」に属するものである。なお、現在は日本には「国際法上の属地」というべきものは全くなく(大正2年現在)。北海道及び沖縄県は今日原則すべての法律勅令が本国と同一に行われているで、これを法律上植民地ということはできない、とした。

 

 以上のように美濃部の批判は、帝国憲法4条(統治権の総攬とそのもとでの立憲主義)に定める天皇大権による統治が行われていることを前提として、参政権、立法権、行政権、さらには司法権まで不完全な形でしか帝国憲法が施行されていないとするものである。後になって「土着人が既に完全に日本に同化して在来の帝国臣民と区別することの出来ない時分に至る」ときには「参政権を与え兵役の義務を課すことはでき」るとしていたのであって、当初は「帝国憲法不適用説」と呼びうるものであったとしても、後には「帝国憲法段階的適用説」とも言うべき説であった。

 

 現に、これを「参政権」についてみれば、自治のための議会が設置されず、帝国議会議員の選挙権・被選挙権は、朝鮮出身者で内地に居住する者にはこれを認め、また朝鮮に居住する内地出身者にはこれを認めないとする変則的なものであった(注3)。この結果、半島出身の衆議院議員は数名が存在したことに止まり、また、貴族院議員も朝鮮貴族の一部が議席を得るに止まった。しかし、ともかくも太平洋戦争末期には7人の朝鮮出身者が帝国議会(貴族院)の議席を得るに至っていた。

 

 (注3)「参政権」について以下の叙述に接したので、そこでの問題点を指摘しておきたい。

 

「そもそも、帝国憲法が施行されなかった以上、朝鮮半島にいる朝鮮人には参政権は与えられなかった。・・・・朝鮮人はどこまでも政治から排除されたのである。だが、参政権の問題については朝鮮人に連動して日本人にも与えられなかった。これは在朝日本人の大きな不満となった」(趙景達『植民地朝鮮と日本』岩波新書、2013年 22頁)。

 

第一に、ここで「帝国憲法が施行されなかった」という点について、すでに本文に述べた通り、日本政府は、朝鮮にも帝国憲法が施行されるが、天皇大権による統治がおこなわれるという立場を取っていたこと(憲法は行われるが内地とは違うということ)が見過ごされている。

 第二に、「朝鮮半島にいる朝鮮人には参政権は与えられなかった。・・・・朝鮮人はどこまでも政治から排除されたのである」という叙述も、本文で述べたとおり、「帝国議会議員の選挙権・被選挙権は、朝鮮出身者で内地に居住する者にはこれを認め、また朝鮮に居住する内地出身者にはこれを認めないとする変則的なものであった」のであり、ここでは「内地居住の朝鮮人出身者には参政権が与えられていた」ことの叙述を合わせて行うことが、参政権に係る制度の全体構造の正確な理解のためには必要であったろう。この全体構造のもとでは、朝鮮人は、総督府の諮問機関として設置された中枢院の機能とあいまって、かならずしも「どこまでも政治から排除された」とまでは言いえないであろう。なお、衆議院議員選挙法の朝鮮施行の機運は、太平洋戦争の開戦後には徴兵制度、義務教育制度、陸海軍特別志願兵制度などが実施され、それらにともない徐々に高まって来ていた。

 第三に、「参政権の問題については朝鮮人に連動して日本人にも与えられなかった。これは在朝日本人の大きな不満となった」という叙述も、「在朝日本人の大きな不満」の原因が日本人には内地でも朝鮮半島でも参政権を行使しうるとすべきであるということから来ているとすると、それは日本人と朝鮮人の間に参政権の行使について差別を認めるということになり、帝国憲法における法の前の平等原則に反する主張ということになろう。このような「不満」には正当性がないことが指摘されてもおかしくはなかったであろう。

 

 

 

また、「兵役」に関しては、併合当初から朝鮮出身者には士官学校に入学して日本軍の将官・士官になる事も許されており(台湾出身者には許されなかった)事実尉佐官の数は四千人に及び、陸軍中将進級者も複数あった。

 

 3おわりに

 

 今日歴史学会においては、以下のような認識をめぐって研究が行われている。

 

 「「帝国」日本の近代法は、その「版図」にある異民族に対して一面では内地延長を標榜して「日本人」への包摂を試みながら、他面では「内地」との法的平等を排除し、差別・格差を構造化するものだった。」

 

    これは、大日本帝国が「中心―周縁関係」のもとに結合する複合的かつ階層的な国家システムであったとする認識であるが、この点について論ずるためには、すでに美濃部について述べたように帝国憲法の段階的適用がどこまで進んだといえるか、また日本政府の企図した帝国憲法全面的適用の実態がどこまで形成されえたといえるかについての実証的検討がなお必要とされよう。この進捗状況の一つの証左は、ロシアから割譲された南樺太が後にその扱いが「外地」から「内地」に変更されたこと(昭和18年)である

 

  



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