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日本農業の未来戦略―伊藤元重氏の所説に思う [日本の未来戦略]


 伊藤元重「農業の競争力高める転機」(産経新聞2015216日「日本の未来を考える」)において、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉における農業分野の交渉で「農業だけがその例外でなくてはならないという理由はない」と主張されています。「その」とは競争により生産性の上昇が実現でき、日本経済全体の底上げが進むということです。

 ここでの理論立ては、大規模農家(「プロ農業家」「より生産性の高い農業者」)の生産性が上がれば、競争力の低い中小零細規模農家(「補助や保護でかろうじて農業を続けている人たちや兼業農家の人たち」)が農業市場から退出しても、全体として農業の生産性が上がるからよいというものです。

 

 このような理論的仮説にたって現実の農業政策が行われれば、言われるとおりの所期の目的は達成されるかもしれません。農業法制(農地の所有、農産物の流通などに係る法制)の規制緩和、税制優遇、財政出動などが緊密に組み合わされて一貫して実施されればでです。

 しかし、このような中小零細規模農家の「市場退出論」、もう少し有り体に言えば「切り捨て論」は本当に日本の未来戦略となるものでしょうか。 第一に、大規模農家は米、欧州、豪、亜細亜の農産物輸出国との農産物を巡る価格と品質の競争に勝っていけるのでしょうか。どこまで行っても埋めることのできそうもない生産規模格差とそれに起因する価格差をどのようにして現実に埋めるのでしょうか。第二に、中小零細規模農家の退出した後の「地方の農村共同体」の姿を描けるのでしょうか。地縁・血縁で結びつけられた安定的な地域社会、そこで受け継がれ、守られてきた伝統文化の維持、発展はどうなるのでしょうか。「地方の農村共同体」こそが、単なる農産物生産のシステムということ以上に、日本社会における高度の社会的統合の基盤そのものなのではないでしょうか。

 安全保障をアメリカに依存し、エネルギーを海外に依存する日本が、このような農業政策の結果、食料までもその依存度を極端に高めてしまい、20年、30年のうちに独立国としての存立が根底から脅かされるおそれは本当にないのでしょうか。

 日本農業の未来を考えるなら、実は考える方向は逆なのではないのでしょうか。大規模農家の競争力ではなく、中小零細規模農家の競争力をどう高めるかという問題ではないのでしょうか。「かろうじて農業を続けている人たちや兼業農家」の「市場退出」をはかるのではなく、これらの農家の農業を高度化・ハイテク化する農業政策こそが選択されるべきなのではないのでしょうか。

 中小零細規模農業を維持・発展させ、農業分野への若人の新規参入を促すためには、農業労働を機械化・ネットワーク化により合理化し、農業を六次産業化(農業、製造業、サービス業の一体化、すなわち1+2+3=6次化)させ、さらには消費市場との連携をハイテク利用により強化するなどが必要でしょう。これらを官民挙げて振興し、中小零細規模農業者を核とする地方農村の「再生」をはかることこそが、日本の明るい未来をその基底において切り開くのではないでしょうか。

 近年の交通網の発展、通信網、とりわけインターネットの充実は、かつての東京と地方の生活、情報、文化における「格差」をほぼ消滅させたと言いうるでしょう。地方に居住しながら「都会的生活」を享受することが格段と容易になっているのです。むしろ農村に生活しながらでも、東京その他の国内大都市をも越えてパリ、ロンドン、ニューヨークなどの世界の大都市と生活感覚を物のレベルにおいても、情報・文化のレベルにおいても共通のものとできる段階に達しているともいえるのではないでしょうか。


 こうして、繰り返しになりますが、農業における日本の未来は、プロ農業家、最終的には企業参入による生産性の高い農業を目指すことによってではなく、現在「かろうじて農業を続けている人たちや兼業農家」を、情報通信網と交通網の高度発展を前提として、生産と流通・消費の総合的ネットワークにより結びつけ、農業における技術革新と高度の「協業化」を促進させること、これらを目的とした機動的「農業政策」からこそ開けてくると言うべきではないでしょうか。


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ドイツの戦争責任と和解への道―メルケル首相の来日に思う [日本の未来戦略]

 ドイツのメルケル首相が39日に7年ぶりに来日しました。「日独、連携立て直し; 対ロシア  思惑一致 ; 対中国 日本に注文」がこれを報ずる新聞の見出しです(日経新聞2015310日付)。これらのうち「対中国 日本に注文」では、同首相が、ドイツはフランスなど近隣諸国との関係修復を少しずつ果たした、戦時中の東欧の強制労働者らへの個人賠償にも取り組んだ、「(ドイツは)過去と向き合ったから和解できた。(各国が)幸運にも受け入れてくれた」と安倍首相との共同会見で述べたと報じています。

 

この点、Japan Timesは「(メルケル首相が)ドイツの経験に照らして、戦争の過去と真正面から向き合う必要性を日本に思い出させた、しかしまた(but also)  近隣諸国においても和解(reconciliation)を達成するための役割が果たされるべきである(must do their part)とも言及した(signaled)」と報じています(Japan Times 2015310日付)。

 

メルケル首相の「(各国が)幸運にも受け入れてくれた」という安倍首相との共同会見での発言、また「和解は隣国の寛容な振る舞いがあったから可能になった」という39日の都内での講演での発言について、「メルケル発言、韓国で波紋」という記事で、韓国外務省報道官が「寛容」発言について「まずは過去に対する真の反省がなされなければならない」と強調したと報じられています(日経新聞311日付)。

 

メルケル首相の発言内容については、すでにのべたようにJapan Timesの記事が「(各国が)...受け入れてくれた」「隣国の寛容な振る舞いがあったから可能となった」という記事より一歩踏み込んだ発言があったことを伝えており、国際社会にはこのJapan Timesの英文記事のように伝えられたと思われます。このJapan Timesの伝える同首相の発言からは、過去の「反省」が「寛容」の前にあるべきであるといったニュアンスは特段には感じられず、和解には双方からの同時的歩み寄りが重要である、そしてドイツはそのようにして近隣諸国と和解に至ったと述べることがメルケル首相の今回発言の「真意」であったと解されるように思えます。

 

ところで、メルケル首相の発言内容を知ると、ドイツにおける戦争責任と和解がどう実現されたのかに興味がわきます。日本の東京裁判に相当するドイツでの戦争責任を訴追した軍事法廷はニュールンベルク裁判として知られますが、ドイツにおける戦犯裁判は、英米ソ仏四国等の連合各国の単独裁判とニュールンベルクに設置された国際軍事裁判所における裁判との、日本に関する裁判(東京裁判)と同様の二本立てでした。国際軍事裁判所における裁判は同裁判所条例6条で規定する戦争犯罪の次の三類型について行われました。(1)「平和に対する罪」 これは、個人及び政府、政党等の団体による諸「侵略戦争の共同謀議」、準備、発起を違法とするものです。(2)「戦争法規違反の罪」 これは、交戦法規および慣習の侵犯を違法とするものです。(3)「人道に対する罪」 これは、一般人民に対する絶滅を目的とする大量殺戮、奴隷化を違法とするものです。この(3)の罪は、ドイツ国粋社会労働党(ナチス)のユダヤ人、非ナチ分子に対する迫害、その追放に関する政策と実行行為を対象とするものです。

 

ドイツ戦犯起訴状で起訴された被告は22名で、全被告について上記三範疇の訴因全部につき競合的に全員に責任ありとして死刑を求刑されました。八か月にわたる裁判の結果は、絞首刑とされた者12名、終身禁固刑3名、禁固刑202名、禁固刑151名、禁固刑101名、無罪3名でした。

 

ドイツが上記三範疇の訴因につき特に連合国から訴追されたのは「人道に対する罪」でした。これはひとえに強制収容所におけるユダヤ人絶滅行為に対するもので、ドイツは戦後イスラエルに対して謝罪と賠償を長年に亘り行いました。これと並行してポーランド人絶滅行為についても、ポーランドとの和解に尽力しました。さらにフランスとは、欧州石炭鉄鋼共同体結成によりドイツの石炭・鉄鋼業をベネルックス3国、フランスなどのそれら産業と統合させる形とEEC(欧州経済共同体)を結成することで和解にこぎつけました。

 

この「人道に対する罪」の訴追が中心となったドイツ(「平和に対する罪」も政府および政党等の団体によるユダヤ人絶滅計画を重要な内容とする「侵略戦争の共同謀議」を対象とするものでした。)と「平和に対する罪」(満州事変以来の軍事行動そのものを「侵略戦争の共同謀議」として訴追の対象とするものでした。)が中心となった日本では「戦犯裁判」といっても重心の違いがあることはつとに指摘されているところです(「戦争法規違反の罪」は共通)。日本にはユダヤ人絶滅行為のようなホロコーストはなかっただけではなく、「命のビザ」で知られる杉原千畝領事によるユダヤ人救出活動があったからです。

 

また日本とドイツの間には、たとえば「メルケル首相発言 単純な比較は慎むべきだ」(産経新聞2015312日社説)が述べるように、相当の手法の違いがありました。日本では、戦後補償問題については、例えば「日韓請求権・経済協力協定」(昭和40年)にみられるように、各国との間で法的に、そしてそれに伴って経済的にも最終解決をはかりました。また慰安婦問題でも「アジア女性基金」による元慰安婦への償い金支払と歴代首相による元慰安婦の境遇への「深い同情の表明」で区切りをつけてきました。

 

★New追記

上で述べましたとおりメルケル首相は、フランス等との歴史的和解についての自らの「経験」と、そこから導き出された双方向の和解のプロセスが成功の鍵であるという「理論的一般論」を語っています。そこからさらに進んで日本の固有の問題にこの一般論を「あてはめる」ことは慎重に避けているようにみえます。

 

ところで、メルケル首相は今回の二日間の日本滞在中に民主党の岡田克也代表との会談にも臨んでおり(310日)、その会談について岡田代表が「(メルケル首相が)日韓関係について和解が重要だと述べた」と紹介したことについて、ドイツ政府が「日本政府がどうすべきかについて発言した事実はない」と日本政府に連絡をしてきたとのことです。そのような説明がドイツ政府からあったことを菅義偉官房長官が313日の記者会見で明らかにしました(産経新聞2015314日付)。一方、岡田代表は313日に記者団に対して「解決したほうがいいという話はあった」と重ねて語り、ドイツ政府と岡田代表の間の発言に食い違いが生じています(同上記事)。

 

日韓の間には現在「(戦時の)慰安婦」について見解が全く異なる問題があり両国間の歴史戦、外交戦となっています。そのような中で、ドイツの出版社クレットが出版した中等教育用の歴史教科書に「日本の占領地域で20万人の婦女子が軍の売春施設で売春を強いられた」とする記述があることが分かったと日本外務省が明らかにしたと報道されています(産経新聞2015314日付)。

 

「(戦時の)慰安婦」については米カリフォルニア州グレンデール市の慰安婦像を巡る訴訟なども起こされており、日米間でも敏感な問題となりつつあります。法治国家のお手本のようなアメリカで、争いのある他国間の基本的人権に係る歴史問題について、当事者の一方の話を聞くだけでCross Examinationも経ていない証拠に基づいて事実の有無の判断をしているような印象(あたかもDue Processが保障されていないかのような印象)が日本で広まりつつあるからです。明治維新で開国し、西欧諸国の司法制度を懸命に導入した日本は、明治時代のロシア皇太子襲撃事件で大審院が司法権の独立を見事に果たし、その後の努力もあって法の支配と司法権の独立は今日日本国民の最大の誇りです。そのような日本からみるとアメリカの法の支配と司法権の独立(法治国家)はどうなっているのだろうと、疑問を抱かすにはいられないからです。

 

まして今度は日本が法制度導入のモデルとしたドイツにおいても、アメリカに対するのと同様な疑問が生じる可能性があります。

 

以上のような全体状況の中で、老練な政治家で宰相の地位にすでに九年間あり、今後も続投する可能性の高いメルケル首相が、具体的に日韓関係について和解が重要だと述べるような明白な内政干渉行為に及ぶでしょうか。歴史の中ではドイツも三国干渉で遼東半島の清国返還を日本に迫るという内政干渉をしたことはありましたが、程度の差はあっても外交における最大の禁じ手の一つを今日のドイツの宰相が犯すとは正直思えません。それでは、普段内政干渉を受けることがいくら常態のようになっている日本にしても、ドイツよお前もかといった感じになってしまいます

 

岡田代表は、メルケル首相の「理論的一般論」の提示を受けて、日本の状況への「当てはめ」にまで話が及んでいると、明確な両概念の区別の自覚の必ずしもないままに、ご自身の主張に引き付けて理解されたのではなかったのでしょうか。

 

 



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